市指定文化財-歴史資料・考古資料
更新日:2021年8月20日
気仙本吉御絵図(文化財一覧 No.35)
- 読み方 ケセンモトヨシオンエズ
- 指定日 昭和58年7月21日
- 所在地 魚市場前
- 管理者 気仙沼市(リアスアーク美術館寄託)
江戸幕府は、諸大名に命じ、諸国支配の基本資料として国絵図を提出させた。また諸藩でも領内の実情を知るためにさまざまな絵図をつくらせた。この絵図は、正保元(1644)年に作製され、元禄11年(1698)年に補正提出したが、後に藩で紛失したので、嘉永3(1850)年に気仙と本吉郡だけを作製したものである。
東磐井郡東山産の大きな極上質和紙に、宿場、一里塚、街道など色分けして書き込まれ、沿岸部は小さな岩礁から船泊まりの可否、金山は本吉郡内で34カ所もある。余白には、絵図を補正した事情や製作年月日、責任者である大肝入や村役人、絵図を書写した者の名前が記入されている。当地方における藩政の実態や地理の変遷などを知る上で貴重な史料である。主要街道から沿岸の様子、金山まで詳細に記入された絵図で軍事上の機密保持から厳重に扱われ、藩に提出する分と地元の大肝入が保管する分の2枚しか作製されなかったという。
本吉北方長磯村・波路上村・最知村・岩月村 分間絵図(文化財一覧 No.36)
- 読み方 モトヨシキタカタナガイソムラ・ハジカミムラ・サイチムラ・イワツキムラブンケンエズ
- 指定日 昭和58年7月21日
- 所在地 長磯船原
- 管理者 階上公民館(リアスアーク美術館寄託)(外部サイトにリンクします)
金山御本判 (文化財一覧 No.37)
- 読み方 キンザンゴホンバン
- 指定日 昭和58年7月21日
- 所在地 笹が陣
- 管理者 個人(リアスアーク美術館寄託)(外部サイトにリンクします)
戦国時代末期、豊臣秀吉は全国の金銀銅山などに家臣を派遣し管理させた。この金山御本判は、東磐井郡千厩に代官を派遣して、東山、本吉、気仙一帯の金山を管理させたとき金山掘り師に発行した鑑札で御本判という。全国でおよそ40万枚発行されたといわれているが現存するものは極めて少ない。縦10センチメートル、横8センチメートル、厚さ0.5センチメートルほどのヒノキ材で将棋駒のような形をし、表に八弁菊の焼印、その右側に文禄三年、左側に卯月吉日、焼印の下に気仙沼と墨書きされている。裏には秀吉の直臣3人の代官名が記されている。
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金山御本判(表)
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金山御本判(裏)
本吉北方松崎村分間絵図(文化財一覧 No.38)
- 読み方 モトヨシキタカタマツザキムラブンケンエズ
- 指定日 昭和59年11月21日
- 所在地 松崎前浜
- 管理者 個人(気仙沼市教育委員会寄託)(外部サイトにリンクします)
本吉郡北方赤岩村分間絵図(文化財一覧 No.39)
- 読み方 モトヨシグンキタカタアカイワムラブンケンエズ
- 指定日 昭和62年5月29日
- 所在地 赤岩老松 (外部サイトにリンクします)
- 管理者 個人
本吉郡北方松崎村分間絵図(文化財一覧 No.40)
- 読み方 モトヨシグンキタカタマツザキムラブンケンエズ
- 指定日 昭和63年4月21日
- 所在地 松崎片浜 (外部サイトにリンクします)
- 管理者 個人
(文化財一覧 No.36、38から40の村絵図の説明)階上地区の長磯・波路上・最知・岩月、松岩地区の松崎、赤岩村の6ヶ村の分間絵図で、ともに文政年間(1818から1829)に仙台藩の命で作製したもの。各村ごとに村境や海岸も細かに測量しその間の距離も記入してある。また、道路・田・畑・川・山林、民家・社寺・堤・館跡・墓地にいたるまで詳細に記してある。必要事項を強調して描いているところに特徴があり、領主の交代、検地、土地譲渡、用水山林争論などに、この絵図が手掛かりになることが多いので重視される。
青銅製経筒(文化財一覧 No.41)
- 読み方 セイドウセイキョウヅツ
- 指定日 昭和49年1月25日
- 所在地 本吉町津谷舘岡
- 管理者 気仙沼市(東北歴史博物館寄託)
田束山経塚群発掘の際に出土したもの。青銅製で鋳造され、外面は高度なロクロ技術で丁寧に仕上げられ、底部には文様面を上にした和鏡がはめこまれている。文様は松喰鶴で、完全に和風化した藤原鏡に属する。出土した時点では、筒の内部に淡紅色に染まった清澄な水が八分目程度入っており、その中に浮くように10本の泥化した経巻がみられた。後日の調査により和紙に朱書した法華経であることがわかった。この調査結果から、経筒は藤原末期(800年以前)と推定され、県内出土のものでは最古の経筒であるとされた。
陶製壺(文化財一覧 No.42)
- 読み方 トウセイツボ
- 指定日 昭和49年1月25日
- 所在地 本吉町津谷舘岡
- 管理者 気仙沼市(東北歴史博物館寄託)
青銅製経筒と同じく、田束山経塚群から出土した納経容器である。表面には薄く灰緑色の釉薬がかかり、胴部にはヘラのような工具で水平に三本一組の筋が刻まれていることから「三筋壺」と呼ばれている。12世紀末に現在の愛知県常滑市付近で盛んに生産された陶器のひとつで、当時の交易や流通を知ることができ、奥州藤原氏との深いかかわりを物語る貴重な資料である。
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